三浦半島の歴史を訪ねて浦賀を巡ってきました。浦賀駅周辺には見どころがたくさんありますが、今回は三か所に絞って歩いてみました。
東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡
最初に訪れたのは千代ヶ崎砲台跡です。
浦賀駅からバスで8分ほどの場所にある平根山という標高65mの高台に千代ケ崎砲台跡があります。
千代ケ崎砲台とは、明治時代に日本が外国船から東京を守るために陸軍が海岸に作った防御施設の一つで、当時の最新技術を駆使して作られた西洋式の砲台です。
砲台の地下には弾薬庫や給水ステムなどが残っており、保存状態が良好だったため2015年に国の史跡に指定されました。日本遺産の構成文化財にも認定されています。
砲台の内部はまるでシャーロックホームズの町
バス停を降りて坂道を15分ほど歩くと目の前に現れたのは明治時代の古代遺跡です。
【柵門】
ここは柵門と言って砲台の出入り口です。砲台の中へはここからしか出入りできなかったそうです。
柵門を入って目の前にあるのは土塁です。
この土塁は外側から砲台が見えないようにするために盛土をしたのだそうです。
ここからはガイドさんに案内されて内部を見てきました。
【露天塁道と隧道】
塁道というのは砲台の各施設を行き来するための交通路です。
坂道になっているのは当時は水道がなかっため、生活用水を確保するために道に傾斜をつけて雨が降ったときに雨水が地下の貯水所に流れていくようにするためです。
【ろ過池】
生活用水として利用するために雨水をろ過していたところ
【貯水所】
隧道の右側のトンネルのような穴の中が貯水所といって流れてきた雨水を溜めて、ろ過した生活用水を貯めていました。
ここは訓練時の宿舎、倉庫
【弾薬庫】
【点灯室】
弾薬庫内部に直接ランプを持ち込めないために作られたそうです。両サイドはガラス張り。
通路は人一人がやっと通れるくらいのスペース。
その奥の階段を上がると砲座にでます。
【砲座】
ここのくぼんだ所に砲台がおいてあったそうです。
【レンガ】
千代ケ崎砲台にみる近代日本史
戦後日本各地にあった砲台などはGHQに取り壊されてしまい現存しているものはあまりありません。
ですが、千代ケ崎砲台にあった砲台は破壊されずに残っていました。今は別の場所に保存されているそうです。
歴史の授業で黒船が来航したことは習ったけれど、それによって何がどう変わっていったのか?という詳しいことまでは習わなかった。(近代史はだいぶ駆け足だった・・・。)
まあ、習っていたとしてもたぶん若い頃は全く興味を持てなかったでしょう。
大人になった今だからいろんなことに興味を持ち始めたのかもしれない。
外国から日本を守るためにこんなにたくさんの場所に基地を作っていたこと東京のお台場もおしゃれな場所くらいにしか思っていなかったけれど元々は幕末に日本を守るために作られた基地だった。
自分たちが普通に暮らしている場所にはいろんな意味があることを知るのはなかなか楽しいです。
古いものを忘れがちな現代において先人が作った壮大なものを見るのは貴重な経験です。
何故これを作ったのか?なぜここに?どうやって作ったのかなどなど。
今があるのは昔がある。
今あるものや、今の時代に起きている事を見直してみると今まで見えなかったものが見えてくるようなが気がします。
白い砂浜が広がる 燈明堂海岸
ここは千代ケ崎砲台代の、真下あたりに位置する海岸。
せっかくここまで来たのだからと、足を延ばしてみました。
燈明堂海岸の入り口に燈明堂あとのは浦賀に出入りする船の安全を見守るための江戸時代の灯台です。
階段を降り入り口にると白い砂浜に岩場が広がっています。水が透き通っていてとても綺麗です。
江戸に向かう船がここを通って浦賀に寄港した場所だと思うと感慨深いものがあります。
浦賀の渡し
そして浦賀と言えば知る人ぞ知る浦賀のポンポン船。名前もかわいいけど船も小さくてかわいいです。
この船は、対岸の町を行き来する人の大切な交通手段です。
時刻表なく、利用したいときは呼び出しボタンを押すとすぐに来てくれます。
ほんの3分ほどの船の旅ですが、浦賀の情緒ある街並みを堪能できます。
昔はプラス100円で自転車も乗れると聞いたことがあります。
料金は大人400円子供200円です。
【ポンポン船の歴史】
今から300年前、1725年に浦賀に奉行所が置かれた頃に始まるそうです。
当時は船1艘に船頭さんが2人ついていたそうです。浦賀の人々以外にも隣町の久里浜、鴨居の人々も協力していたほど日常には欠かせない船だったそうです。
大正6年頃が最盛期で、1日の平均乗車数は1,000人だったそうです。
都心から1時間ほどの場所で情緒あふれる港町を楽しんでは如何でしょうか?
情緒あふれる港町も開発の波が押し寄せているようだけど、対岸からみた景色はまだ昔の面影を残しているようにみえます。
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